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> No.704[元記事へ]
リンク先が消えてしまうこともありうるので、ブログの内容を要約しておきます。
明治24年、美濃国高須(現在の岐阜県海津市高須)の大金持ち大阪屋の吉田彦一郎は、長年痔を患っていた。
「どんな病気も治してくれる霊験あらたかな神様がいる」という噂を聞き、優秀な先生に来て欲しいと吉田さんは望んだ。
招待された山田太右衛門(甲賀大教会初代会長)さんが、お供を一人連れて吉田家にやって来た。
吉田家の女中・使用人等、集まった人々に、まずお供の者が「元の理」の話をする。
次に山田太右衛門さんも「元の理」の話を何度もする。
同じ話を何度聞いても、どこがありがたいのかさっぱりわからなかったので、変な人を呼んでしまったと思い、翌日には帰ってもらおうと、吉田彦一郎さんは思った。
しかし、一夜明けると彦一郎さんの痔は出血が止まり、不思議な事に完治していた。
心を入れ替え、山田太右衛門さんに1週間ほど高須に滞在してもらい、最後には講を結ぶことに決める。
町一番の有力者で金持ちの吉田さんが信仰するなら間違いないというので、高須の町中の人々が天理教を信仰することになる。
「ドジョウが出てきて こんにちは」みたいな話を聞いただけでたすかってしまう、というのは常識では考えられません。
筋道の通った話を聞いて、心を入れ替え、その結果痔が治った、というなら、まだ、少しは説得力が、あるいはあるかもしれません。
しかし「元の理」の話は荒唐無稽であり、合理的・論理的ではないのです。
「どんぐりころころ」の歌で病気が治ったなんて、聞いたことありますか?
「バカバカしい」と相手にしてもらえないでしょう。
それほどに、起こりえないことが起こったわけです。
親神様は、不思議なたすけ、珍しいたすけをなされます。
通常ではあり得ないこと、科学では説明できないことが起こるので、人々は「不思議だ」とか「珍しいことだ」とか言うでしょう。
その人知を超えた力を現す、というのは、確かに神はあるというその存在を強く示すこと、であります。
そうしなければ、人間は真剣に思召に耳を傾けようとはしないのです。
科学で説明できたら「不思議」でもなんでもないわけです。
「科学」との「整合性」を求める必要はない、というのはそういうことです。
「教理がすばらしい」と信仰を始めた人は、「これはいいけど、これは違う」とか「あれはどうも納得できない」とか、教えを取捨選択しがち、というより選り好みをしてしまうのではないでしょうか?
脳内信仰というか、頭で始めた信仰は頭で終わってしまうかと。
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