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「科学性」とは?

 投稿者:阿南ヒロシ  投稿日:2009年 5月 8日(金)20時10分39秒
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  > No.679[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。  (阿南より)

> 科学として正しいと言えるのは
> 体系的・論理的で辻褄が合っていること。
> その説が正しいとする根拠を明示できること。
> 誰が実験しても同じ結果になること。
>
> スピリチュアルは個人的体験の範疇のもの、また、目に見えないところのものが多いわけですよね?
> 実験による再現性難易度は非常に高いです。
> 同じ状態をつくることが困難。
> しかも目に見えるかたちで表さなければなりません。
> 科学になじまない分野ではないか、というのはそういうことです。


* 「誰が実験しても同じ結果となる事。=実験よる再現性」を、「科学的」である事の大前提とするは、確かに貴方の仰る通りです。

* 早稲田大学の大槻教授等は、ほぼ貴方と同じ観点から、「心霊学」や「超心理学」が「科学」である事を否定します。即ち、それらの「体験報告」は、「詐欺・ペテン・錯覚・錯誤」という訳です。

* しかし、貴方は、「医学」を「科学」と一分野として認めるでしょう。所が、「患者の治癒」というものは、「心霊学」や「超心理学」の報告例と同様、場合に拠っては、それ以上に「再現性」の無いものなのです。

* 要するに、貴方の回答を読むと、貴方が「心霊学」や「超心理学」等、およそ天理教以外の学問に関して、殆ど無知である事を感じます。



> 科学は手法のひとつです。
> 有用ではあるけれども万能ではありません。

* 上記の点に関しては、異論はありません。

*  尤も、貴方の「理解・定義」している「科学」という概念は、一般社会人の理解している「科学」概念であり、私の考える「科学」は、「必ずしも、再現性の無い現象でも、科学である。」と定義する独特なものですが。

* しかし、「医学」に拠る「病気治癒」が、非常に「再現性」に乏しいものであるのは、「殆どの正直な医者」の認める所ですよ?



> 疎遠だった友人がいきなり家にやって来たので「なんで来たの?」と尋ねたら「車で来た」と答えた。
> こちらが知りたいのは目的であって手段ではないでしょう。
> でも科学は「車で来た」と、そのような答え方をするので

* 上記の貴方の記述は、その趣旨が理解困難です。
* 「科学」は、「人間が生まれて来た目的」や「人生の意味」に対して答えられない、という意味でしょうか?
* それならば、その通りです。
* しかし、そもそも「科学」は、その様な「問い」に対する「答え」を追求するものではありません。
* これらの「問い」に対する「答え」を用意するのは、「宗教」や「哲学」であり、「科学」は、「どの様に?」という「問い」に対する「答え」を用意するのが任務ですよ。



> 飛行機はなぜ飛ぶのか、科学により完全に解明されているわけではありませんが、実用上問題ないのですね。

* 「飛行機は、なぜ飛ぶのか(どの様なカラクリで)?」という「問い」に対して、「流体力学」に拠って、明確に説明されてます。
* 従って、現在、殆ど全ての飛行機は、「流体力学」に拠る「計算」をコンピューターで行って設計されてます。

> まず、空を飛びたいという欲求があって、試行錯誤の中から段々と飛距離が伸びていったと。
> 科学理論があって、では飛行機をつくりましょう、ではなかったのでは?
> 科学は後付けでしょう。

* 「科学」の「理論」と「実験」は、「車の両輪」であって、瞬間的には、一方が他方より前に出る事があっても、大局的にみれば、両者は平行して進んで行くものです。



> 科学には科学の守備範囲があります。

* 「人は何の為に生まれて来たのか?」・「人生の意味は?」等の「問い」に対して、「科学」は「答え」を用意出来ない、という意味では、その通りです。
* しかし、「宇宙は、どの様に誕生し、太陽や地球は、どの様に形成されたのか? 植物・動物・人類はどの様に何処で誕生し進化して来たのか?」という「問い」に対しては、「科学」は、「宗教」では足元にも及ばない程、明確に正しく回答出来てます。

* これを言い換えれば、天理教は、「天理教理の中で、科学に『矛盾』している部分は、完全に放棄・修正し、科学が触れて無い部分(=人生の意味)等だけを教理とすべきであり、それに失敗するならば、200年後には完全に世界から消滅している。」事でしょう。

* 更に、別の言葉で言えば、「8つの埃」・「貸し物・借り物の理」等は、少しも「修正」する必要も無く、「放棄」する必要も無いけど、「人類は、奈良県・天理市から始まった。」と主張する「元の理」・「泥海後記」等は、速やかに「放棄」しない限り、天理教は急速に衰退して行くであろう、という事です。



> 阿南さんは、科学に過度の期待をしているように見受けられます。
> それは、新しいものの方がよりよい、という姿勢からもうかがえます。
> 「いずれ○○は科学によって明らかになる」というのは科学信仰であって、科学的態度ではありません。

* 「科学」という言葉の意味が問題ですが、もし、「科学」という言葉を「哲学」とほぼ同義で使うならば、私は、「科学=哲学」で全ては明解に説明される日が数百年後には来ると信じてます。



> OSに例えての評価ですが…
> 親神様の教えは普遍的なものであって、時代に即して変わるものではありません。
> 変わるとすれば、それは伝え方です。

* 上記した様に、「8つの埃」・「貸し物・借り物の理」は、確かに「普遍的・不変的」な原理であると、私も思ってます。



> 阿南さんが知りたいとおっしゃる100年前の「初代・大教会長」さん達の「伝記」、教えをどのように悟り実践しその結果どのようなことがあったのか、記されているものですよね?
> では、いま自分はどう生きるのか、「伝記」はひとつの参考にはなりますが、同じことはできないし、したとしても同じような結果になるとは言いにくいしょう。
> 常に変化している。
> でも、それは普遍的な教えをいかに応用するかということであって、教えそのものが古い・新しいということではないのです。

* 「古きを訪ね、新しきを知る。」事が出来るかどうかは、「その人」次第でしょう。



> いつ、どこで、だれが、なんのために、どうやって、この世を創り人間を創ったのか。
> これは変わらないのです。
>
> 天保9年から遡ること九億九万九千九百九十九年の昔、現在の住所は奈良県天理市三島町、天理教教会本部神殿の中心にあるかんろだいの地点で、親神様(天理王命)が「人間の陽気ぐらしを見て共に楽しみたい」と思し召され、(親神様が)心尽しきって、人間は創られました。

* 上記の部分は、これを完全に放棄して、「天文学・地球物理学・人類学等で述べられている方が正しい。」と正面から認めない限り、200年後には、天理教は完全に消滅しているだろうと私は確信してます。 (貴方の信念が正しいか、私の予測が正しいかは、歴史が証明してくれる事でしょう。)



> 元は変わらないのです。

「新プラトン主義」という「哲学」があります。この「新プラトン主義」も「元は変わらない。」と考えてます。 私は、この「新プラトン主義」を信奉してます。

★ 新プラトン主義    Neoplatonism   (平凡社・世界大百科事典)

後3世紀にプロティノスによって実質的に創始され,6世紀まで存続した哲学思潮。

その後のヨーロッパ哲学史上にプラトン主義の伝統を定着させる働きをした。

プロティノス自身かなり独創的な思想家であったが,自分の思想をすべてプラトン哲学からの帰結であると称していたので,この名がある。

しかしプラトンにみられる政治的・実践的関心はあまりなく,もっぱら神学的・形而上学的局面に集中する。

プロティノスに影響を与えたのはプラトン,アリストテレス,ストア学派,新ピタゴラス学派などの哲学であるが,ギリシア哲学ばかりではなく,その師アンモニオス・サッカスを介してオリエント,エジプトの神秘学からも多大のものを受け継いだ。

この傾向は神智学(テオソフィア theosophia)とか接神術(テウルギアtheourgia)と呼ばれる。

プロティノスに至ってギリシア・ローマ文明とオリエント・エジプト文明が完全に一体化したといってよいだろう。


彼の著作は死後,弟子のポルフュリオスによって《エンネアデス》,つまり各巻9編から成る6巻の書物として出版された。

ポルフュリオスの弟子イアンブリコスは《エジプト人の密儀について》によって古代異教神学を集大成した。

5世紀にはプロクロスがこの伝統を継承し,プラトン解釈史に画期的業績を残した。

ユスティニアヌス帝の勅令によるアカデメイアの閉鎖(529)など6世紀の異教弾圧で,西方世界にはこの伝統は表だってはとぎれてしまうが,アウグスティヌス,ボエティウス,偽ディオニュシウス・アレオパギタなどの著作を通してキリスト教の教義形成に無視できない影響を与えたほか,東方キリスト教会にはフィロカリアという形で受け継がれ,さらにイスラム世界に入って,スーフィズムの哲学的原理として発展した。

古代ギリシアの学術の継承とあいまって数学,天文学など自然諸科学の発展に対する寄与も小さくない。

この伝統がルネサンスとともに西方に復帰しフィチーノなどの〈ルネサンス新プラトン主義〉を生み,各地のアカデミー運動の原動力となった。

ケンブリッジ・プラトン学派に属する人々や T. テーラーは近代新プラトン主義者といえよう。

ドイツ観念論も新プラトン主義のドイツ的変容とみる人もいる。

 古今東西の神秘哲学と同様,新プラトン主義は次の七つの理論的支柱をもっている。

(1)〈世界の四重構造〉 世界は可視的物質界と三つの不可視なる原理的な力よりなる。それは〈魂psych^〉つまり生命力と,〈叡智 nous〉つまり宇宙秩序の認識機能と,〈一者 to hen〉つまりあらゆる対立を統合する絶対者であ
る。一者は〈第一なるもの〉または〈善〉と呼ばれ,それ自体はまったく単純なものでありながら,その中にありとあらゆる多様性を潜在的に含んでいる。これは完全な充実であり,あらゆる認識,生命,本質,存在を超越する。

(2)〈流出〉 〈一者〉から〈叡智〉が,〈叡智〉から〈魂〉が,あたかもあふれる水のように流出する(流出説)。下のものは上のものと本質を同じくするが,勢いや力の劣った存在形態であり,三つの原理的なものは階層的秩序を保ちながら,しかも連続している。〈一者〉から遠ざかるにしたがって〈一者〉の力を失うことから,善と完全性において劣ることになり,そこに階層的世界が生じる。

(3)〈不可視世界の実在性〉 真に実在するものとは不可視世界の三つの原理的な力のみであり,外的世界は〈魂〉が〈質料 hyl^〉をまとっているだけの仮象にすぎない。永遠の世界には時間的変化も空間的分割もなく,つね
に一定の秩序(コスモス)のもとに存在する。しかしこの秩序は〈叡智〉や〈魂〉を介して物質界にも顕現しており,外的現象の観照(テオリア)によって,永遠の本質に触れることもできる。原理を知る者にとって,現象界はその原理の示現の場となるのである。

(4)〈全中一・一中全〉 〈一者〉は宇宙のあらゆるものの中に遍在している。すべてのものは,そのものたりうるためには〈一〉を分有していなければならない。〈一者〉そのものとの合一は至難だが事象を通して〈一〉を想起することは可能である。一方,一つの事物の成立には他のあらゆるものが関係しており,どんなささいなものの中にも宇宙全体を映す鏡というべきものがある。

(5)〈神人交渉・万物照応〉 階層的秩序の中にあって,下のものは上のものの映し,または表現であり,下降形態であるから,下のものは上のものの本性をもち,それを通じて上のものと交流することができる。上のものが下に影響するだけではなく,下のものも上に影響することができる。人間はこれによって上のもの,つまり神霊や神々や〈一者〉と結びつくことができるのである。

(6)〈脱自(エクスタシス)〉 人間は外的現象から内的世界に目を転じ,魂の目で直接内的宇宙を体験することによって三つの原理的な力にじかに触れることができる。内的世界の深まりの中では,認識するものと認識されるものの区別が消失し,〈魂〉と〈叡智〉,さらに〈叡智〉と〈一者〉は完全に一つのものになる。そこで魂は恍惚(こうこつ)として〈一者〉に合一し,小我から脱却して,宇宙大の〈一者〉の中に溶けこんでいく。

(7)〈帰還こそ人生の目的〉 流出の過程で現象界に埋めこまれた魂は,〈一者〉との合一を求めて,流出と反対の過程つまり帰還の道を探求しなければならない。そこにのみ真の幸福と人間の完成があるからである。人生とは家郷を失った旅人の望郷,帰還の旅路にほかならない。

(平凡社・世界大百科事典)

★ 新プラトン主義

 プラトンは、我々の属する物質世界、現象世界の上にイデア界(叡智界)を置いた。

 このイデアという概念は、プラトン哲学の中心概念とも言える。

 イデアとは言ってみれば、完全にして普遍、永遠の真実性であり、物体としては捉えられない存在である。

我々の感覚的世界の事物はこのイデアを原型とする模造であり、イデアを分有してのみ存在する。

イデアは、我々の感覚的知覚の対象とはならず、理性的認識の対象である。


ここで新プラトン主義は、この思想を更に発展させた。

 従来のプラトン哲学のイデア界以上の究極の原理を求めたのである。

 即ち、このイデア界にも様々な階層がある。そして、この究極の原理を求めるのならば、一切の多様性を取り除いた原理が求められなければならない。

これは、多様性どころか存在や思惟すらも超えた所にある原理でなければならない。これこそが「一者」であり、様々な物に分化する前の統一体でもある。

 この「一者」は空間や時間を超越した存在であるから、どこにあるわけでも、いつあったわけでもない。動きもしないし、静止もしていない。形も大きさも重さもない。意識すら当てはまらない。

意識は「見るもの」と「見られるもの」という対立から生じるのだが、「一者」には、そういった区別も無い。

 また「一者」は、「神」とも呼ばれるが人格を持っているわけでもない。

 要するに、あらゆる規定や法則に縛られない「根本原理」の事を言っているのだ。

 この「一者」から、世界は多様化して生じた。


だが、多様化するという事は何か理由がある筈である。どの様にして、何の為に世界は多様化して出現したのであろうか?

 「一者」が世界を創造したわけではない。何故なら創造とは結局の所、「作用」であり、作用というのは変化する現象界でしか起こりえない。

そもそも「一者」は完璧であるから、わざわざ新たに世界を創る必要性が無い。

 では、この完全なる「一者」と、不完全な現象界、物質界とは、どのような関係があるのであろうか?

 それの答えが「流出説」である。

 この「流出説」は、既にグノーシス派によっても唱えられていたが、新プラトン主義は、それを更に発展させ重要視した。

 「一者」は無限である。「一者」を限定するものは存在しない。だからこそ、「一者」は溢れ、流出するのである。

更に「一者」は完全であり無限の力を持っているので、尽きること無く永遠に流出を続ける事が出来る。


それは、泉と川の関係に例えられた。泉は、水を溢れ出させ流出させ、川を作る。

この泉は他に源を持たないが故に、川のように自らを使い果たすことはなく、その状態を保ちながら存在し続ける。


 「一者」は太陽にも例えられた。太陽は熱と光を放ち続ける無限の存在だ。

しかし、太陽から放たれた光は、太陽から遠ざかるに従って、その明るさを弱める。

 「一者」から流出した物は、遠ざかるに従って、次第に完全さを失って行く。


結局、流出した世界はオリジナルの「一者」より、どうしても粗悪にならざるを得ないのである。

 我々の住む現象界、物質界が不完全なのはその為である。

 これは、詰まる所、我々は感覚だけに頼り、物質的世界にはまり込み、堕落している状態にある事を意味する。


結局、流出したという事は、完全な存在である「一者」から、こぼれ落ちた存在だという事だ。

 「一者」からの流出は、「ヌース(知性、精神、理性。イデアを認識するための理性的能力のこと)」から「魂」を経て、段階をふんで「質料(物質的な存在)」 に行き着く。

「質料」の中でも一番最低の状態とは、「闇」であり、それは「光の欠如した状態」のことである。「悪」は、こうした欠如した状態の便宜上の呼び方である。


我々は、こうした物質世界への「下降を喜ぶ」ことを止めて、「一者」へと自分を向上させねばならぬ。

 人間の「質料」的な側面は、言ってしまえば肉体であり、欲望に染まることによって「悪」や「災い」を引き起こす。

しかし、人間は本来は、天上的な存在であり、我々の「魂」の故郷はイデア界にある。

よって、「魂」を解放してイデア界に帰り、そこから更に「ヌース」へと高まり、遂には「一者」そのものと合一する。

 これが究極的な哲学の目標であると言う。
 
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