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(無題)

 投稿者:こ。  投稿日:2014年 6月29日(日)02時27分36秒
  ワールドカップだな!


※好きなうた。エレカシ『普通の日々』
 
 

(無題)

 投稿者:  投稿日:2014年 6月 7日(土)22時31分11秒
  ブラジルW杯じゃあ!  

映画。

 投稿者:こ。  投稿日:2012年11月 3日(土)21時10分55秒
  『北のカナリアたち』  

次に会ったときに。

 投稿者:こ。  投稿日:2012年 8月25日(土)00時49分18秒
  自炊しているみなさんに。

次に会ったときに、料理の話などしませんか、教えてください、ぼくは下手だけど。


たぶん、武田あたり、ンまいと思うんだな。


またね。



自炊しない奴はバカだ。
 

(無題)

 投稿者:こ。  投稿日:2012年 8月14日(火)23時50分32秒
  失業中のアルバイト。

普段こうは言わないんだけれど、まぁそれなりにいろいろあったんだけれど、失業したときなど、運送業のアルバイトをまず探すようになった。

ベース内の作業など、僕の見た限りでは、学生さんから七十代まで、様々だね。経営者の方もいる。

ベルトコンベア作業なんてなぁとかじゃなく、ベルトコンベアの作業の技術、やはり、ある。BOXの運び方も。

この時期、汗だくになってしほしほになる。シャツもしほふくよね、パンツも、ズボンも、ヘルメットの下のタオルもな。

ありがたい。何か生き甲斐があるのはありがたい。

みんな、わかるよな。苦労話なんかじゃないもんな。

そして、家に帰ったら、どんなに疲れていても、夏だいこんの一夜漬けを塩で仕込む。だいこんの葉もいっぱい漬ける。最高だ。

翌朝、だいこんの一夜漬けでごはん何杯も食える。


ぼくは勘違いの贅沢も沢山したんだけれど、夏だいこんの一夜漬け、夏の朝めし、最高だね。


茄子も、ししとうの炒め煮も大好きだよ。


よろしくね。
 

(無題)

 投稿者:こ。  投稿日:2012年 8月 2日(木)22時54分49秒
  失業した人など、何かあれば連絡ください。
 

(無題)

 投稿者:こ。  投稿日:2012年 7月23日(月)20時59分38秒
  僕は夏彦が大好きだった。

『年をへた鰐の話』

考えさせられる(どう言うべきなのか、わからない)。

これは私小説ではない。

私小説についてはもうここでは言わない。
 

またまたつづき。

 投稿者:また失業中の、こ。  投稿日:2012年 7月12日(木)21時02分8秒
  職業訓練校のみに来る募集というのがあるんだ。

無料コースもあるんだ。


あとは自分で調べてください。
 

また突然ですが。

 投稿者:また失業中の、こ。  投稿日:2012年 7月12日(木)20時45分18秒
  職が決まらなかったり失業して悩んでいる人たち、職業訓練校に行こう。


これまで雇用保険がなかった人でも職業訓練受講給付金が支給される制度もある。
 

好きな映画。

 投稿者:こんの。  投稿日:2012年 7月 3日(火)01時51分45秒
  『どついたるねん』  

お願いします。

 投稿者:こんの。  投稿日:2012年 5月 2日(水)22時00分0秒
  嫌がらせが、ずっとつづいています。わかる人にはわかるはずです。

もういちいち言いません。
ほんとうに、もうやめてください。


お願いします。
 

(無題)

 投稿者:こんの。  投稿日:2011年10月 5日(水)20時03分20秒
  「…親鸞は供養ということを通して、人間のこの原初以来の闇を見つめていたのである。供養の根っこには、生者中心の眼差しが横たわっているのであった。ところで、現代を生きる人間は、まさしくその生者中心の眼差しを自らの根っこにしているのではあるまいか。この生者中心の眼差しが自然の征服を善とし、自然の全体を見失っているのである。そうであれば、その延長線上にある国家をはじめ、民族や個もまた、よくよく見つめ直されてよいだろう。親鸞の眼差しは、そのすべてを厳しく見据えているのである。「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」とは、まことに恐ろしい言葉だと言うほかない。親鸞が長く異端として恐れられた所以である。だが、自然の征服者になるまでに至った人間の知恵の闇は、この異端の眼差しを通さずして新しい展望を開くことができるだろうか。

思えば、親鸞はすでに明言していたのであった。「おおよそ大小聖人・一切善人、本願の嘉号をもって己が善根とするがゆえに、信を生ずることあたわず、仏智を了(さと)らず。かの因を建立せることを了知することあたわざるがゆえに、報土に入ることなきなり。」(『教行信証』)。そしてまた、親鸞には次の言葉があった。「『如来』と申すは諸仏を申すなり。」(『一念多念証文』)。

生者が中心であるとき、死者はいつも永遠の彼方に旅立つ人なのであった。親鸞はしかし、死者とは合掌する者には仏であり、仏とはまた、生者の眼前に真実として現れる如来であると明言するのである。人間存在とは、対象化する知恵によって生きる生き物であるが故に、決して対象化することのできない如来に見つめられていいのである。そのとき初めて、人間はそのいのちを、いのちの大地において生きることが可能となるのである。わが家の亡き子もまた、わたしにとっては、まさにその如来なのであった。

『歎異抄』の世界は、まさしく永遠なる異端の世界であり、根源的ないのちの世界なのである。」(高史明)


「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるをたすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。」(『歎異抄』序)


「悪人正機は、私の死(消滅)を指す。」(鶴見俊輔)



次回、私小説について。
 

(無題)

 投稿者:こんの。  投稿日:2011年10月 3日(月)01時17分30秒
  鶴見俊輔『わたしのアンソロジー』  

映画『大鹿村騒動記』

 投稿者:こんの。  投稿日:2011年 8月 1日(月)00時24分51秒
  原田芳雄、死んだな。(原田芳雄は歌もうまかった。旨い。例えば『Don't Worry』という歌への憧れをぼくはこころの奥底の方に持っているんだ。贋ロマンチストってことば、好きです。)

主演芳雄の映画『大鹿村騒動記』を観てきました。
傑作というものではないんだけれど、なかなかね、よかった、人間臭くてね、おもしろかったよ。館内に、観客の素直な笑いが心地よくひろがっていた、年配の方が多かった。映画館での笑いってほとんどは嫌なんだけれど、あぁいいものだなぁと。

大鹿歌舞伎『六千両後日文章 重忠館の段』について、この映画のなかでその景清を演じたかれはこう言った。「そもそも僕が大鹿歌舞伎を主題にしないかと提案した根底には、景清を演じてみたいという誘惑があったんですよ。自らの両眼を抉りとり「仇も恨も是まで是まで」という、あの台詞を言ってみたかった。」
「この映画の主題になった村歌舞伎には、芸能が本来備えている「蛮力」のようなものがあると思うんですね。役者という生業を続けて、70代に入った今、僕自身がそういう力に飢えている感じがある。その意味で『大鹿村騒動記』は、規模こそ決して大きくはないけれど、節目になりそうな予感はしています。第三期の始まりと言いますかね(笑)。ここからまた、何かが始まればいい。そんなことを考えたりもするんです。」

三國連太郎演ずる津田義一(大鹿歌舞伎保存会会長。シベリアに抑留されていた。)のお墓参りの場面、印象的でした。



※最近だと『火の魚』という作品、気に入っていまして。あの尾野真千子、いい。そりゃ、原田芳雄も好いっすよ!
 

まだですか。

 投稿者:こんの。  投稿日:2011年 7月23日(土)18時22分49秒
  すべて消して、この掲示板の投稿数を0にしませんか、どうですか、掲示板は残しておけばいいんです。

また書きます、準備しています。
 

(無題)

 投稿者:こんの。  投稿日:2011年 7月18日(月)22時57分12秒
  大震災があって、こころのなかで掌を合わせました。

ご無事でしょうかときくのも抵抗があったし、夏になりましたがみなさんお元気ですかとか言うのも抵抗があります、ぼくが言うのは抵抗があります。何と言うべきなのか、わかりません。仙台にも帰ってません、現状も見てません、何人かの声をきいて感じたことがありますが、言い方がわかりません。からん君、忙しい中、電話につきあわせてしまって、すまん、ありがとう。(この掲示板、検索にひっかかったりもするようなのでひらがなで名前は書きました。)


最近、中井久夫の『災害がほんとうに襲った時』(「東日本巨大災害のテレビをみつつ」と、「災害がほんとうに襲った時」という阪神淡路大震災50日間の精神科医たちの記録がおさめられている。みすず書房。)を読みました。この本の書評みたいなことはここではしない。優れているなぁとか、貴重な…と感じたところもあれば、そうだ、ううん、と思ったところもいくつかある。本本と言うつもりはない。

あとがきから引用します。

「(阪神淡路大震災と今回の大震災とで。中井久夫は今回の大震災があってから、阪神淡路大震災を「神戸」と書いていましたが。)似ているのは、残された未解決の問題が次第に難しいものとなることである。それは混乱が整理されてゆくにつれて必ずそうなる。」

「総じて、内部からみた外部と外部からみた内部とが次第に別ものになってゆく。これが時間がたつにつれて起こるもっとも大きな食い違いかもしれない。

この乖離はしばしば気づかれないままに進行する。

外部からみれば、粛々と整理されてゆく移行期にみえるだろう。内部からみればまったく違う。何が重要かがくるくる変わり、変化してやまないのである。たぶん、遠すぎる眺めと、近すぎる眺めとの乖離であろう。

言い換えれば、内部からみたら重要な問題が入れ代わり立ち代わり登場しては他に置き代わってメリー・ゴーランドのようであるが、外部からみれば次第にそれなりに整いつつあるとみえるであろう。」

「これは内部が自己中心的で外部は大局観に立っているというような違いではない。内部からみれば逆に外部が自己中心的にみえる。オーストラリア山火事の際のラファエルの観察からした「忘れられる時が最大の危機である」という時である。内部の人々が生活再建を前に途方に暮れる時である。視野を拡大しつつある内部人にとって、食糧や水や燃料の不足はいっときのことに見えてくる。外部人にとっては、それは救援の成功であるが、内部の人にとっては外部とどうやってつながりを取り戻し、生活を再建するかという大きな課題がようやく見えてくる時である。この相違は外部からの救援が成功すればいっそう顕著になる必然性を持っている。

ここで、外部でもあり内部でもある周辺部被災地域の問題が浮びあがる。周辺部は生死にかかわらないことが多く、さほど注目されない。それだけに初期的な問題が断片的に残る傾向がある。そして、この初期的な問題が全体を不安定にする。それが周辺部に帯びやすい特徴である。」


「四月三日現在、まだ犠牲者の数さえさだかでなく、これから何が起こるかもわからない情況を反映してか、正式名称さえ決まらない今回の巨大災害の全貌は、とうてい把握できないまま、私を圧倒している。犠牲者の冥福を祈るという型どおりのことばを記す日がいつかくるだろうか。」



(※ここに以前から書いてみたかったことを書いてみようか。

「人にうっかり自己をみつめよなどといわないことが重要です。」と中井久夫は何かの本に書いていたと思う。(エンキチさんから教わって、中井久夫を読むようになった。)

現実問題ということ、情念の問題ということ、見つめなおすということ、気持ちということ、ここ数年特に感じていたことなんだけれど。

いろいろあって、悩んで、ある時に、ふっと「…」で現われてくるのが「いつものように」ということなんだとぼくは思います。

日常のなかに潜んでいるようなあやうさに、こころひらいていたい。



なでしこジャパン、優勝しましたね。いいサッカーをする、一生懸命さでどうにかして…ね。感動を与えてくれました、どうも、ありがとう。尊敬しています。)
 

(無題)

 投稿者:こんの。  投稿日:2011年 7月13日(水)20時07分34秒
  この掲示板のこれまでの投稿すべてを消しませんか。  

石牟礼道子『名残りの世』

 投稿者:こ。  投稿日:2011年 7月12日(火)06時47分27秒
  石牟礼道子『名残りの世』

「わたくしどもの心の内部のいちばん根本のところで、ひとりひとりを苦しめております煩悩、天下国家の心配よりは、社会問題よりは、一人の人間のいちばん内側にあっておのおのを苦しめている煩悩ということを、わたしの地方、あるいは天草あたり、ひょっとすればこの出水あたりでも、否定していうのではなく、当然あるものとして把握していう言い方がございます。たとえば、

「わたしゃあの子に煩悩でならん」

とか、

「あそこの婆さんな、あの子ばかりにゃ煩悩じゃあが」とか申します。たいがい、祖父母が孫に対する気持を評して言ったり、やはり年長者が、血縁ではなくとも、誰かに目をかけて可愛がっているのを申します。みなさまもきっと思い当られると存じます。この煩悩というのを、ほかの言葉に言い替えることはむずかしゅうございます。

標準語で「目をかけて可愛がっている」とも翻訳してみましたけれども、それでは意が足りません。

煩悩が深い、とふつう言いますときは、煩悩の虜となって、がんじがらめの困った状態をいうのではないでしょうか。がんじがらめの状態から脱け出せないでいて救われないと。そういう含みで、ふつうは言われていると思うのですけれども、

「煩悩じゃぁもんなぁ、あの人は(あの人に)」

とわたしどもの地方で言います時に、特別情愛の深い人のことをさして申しましたり、並々ならぬ情愛をかけられている存在のことを、一種嘆息まじりに申します。けれども情愛をかけているとは言わず、「煩悩じゃ」というのです。情愛の深い人じゃ、という言い方はまた別にあるのですけれども、この場合それは使わずに、煩悩の深い人だと申します。

男女間のことには、煩悩じゃあとは言いませんのです。男女間の煩悩はまず他者には視えませんので、ことさら煩悩とは言わないのかもしれません。情愛の濃さを一方的に注いでいる状態、全身的に包んでいて、相手に負担をかけさせない慈愛のようなもの、それを注ぐ心の核になっていて、その人自身を生かしているものを煩悩というのです。

愛という言葉はなんとなく、わたくしどもの風土から出て来た感じがしませず、翻訳くさくて使いにくいのでございますが、情愛と申した方がしっくりいたします。そのような情愛をほとんど無意識なほどに深く一人の人間にかけて、相手が三つ四つの子供に対して注ぐのも煩悩じゃと。人間だけでなく、木や花や犬や猫にも、煩悩の深い人じゃと肯定的にいうのです。これはどういう世界なのかと常々わたしは思います。

ひょっとしてこれは、仏教のいう真理や教義・教学などを、開祖たちが命をしぼるような苦業をして到達したいと願った世界を、庶民たちはひょいと乗り越える状態ではあるまいかと考える時があります。大衆というものは、宗教の中に知識ではいってゆくようなことをいたしません。庶民、仏教界では衆生と言っております。わたしは、生きてゆくのに時代の論調などを必要とせぬ人びとのことを言っておりますが、新聞くらいは眺めはいたしますけれども、活字ではものを考えない人びと、テレビもよくみて、テレビ談義もしますけれども、活字に支配されてはいず、論壇の時流などにはなんの関心もなく、むしろ馬鹿のふりをしていたり、無知を名乗ったりしながら、一瞥で人間というものを識別する能力を持った人びと、それを知識という着物を着た人種の前ではおくびにも出さぬ人びと、心の深みに人間存在の悲哀を、慈悲を持った人びとのことを言っております。このような存在あるがゆえに、宗教というものは、終(つい)には教理化することのできぬ玄義というものを、その奥に包んでいるのではないでしょうか。」
 

つづき。

 投稿者:こ。  投稿日:2011年 7月 7日(木)00時16分12秒
  もうひとつ、やはりこのころ、当時のこどもたちがあこがれていた第一高等学校の寄舎寮に、あかずの便所があるというはなしをきいた。

夜、ひとりで便所にゆくのは、生れてはじめて自分の家をはなれた十八歳やそこらの旧制高校生にとって、おそろしい経験だった。寄宿寮には、深夜に幽霊が出るといううわさの便所がひとつあった。そこに肝だめしに行くというところまで、はなしのはずみでなってしまって、ひとりが立って出かけていった。彼は用をすまし、なんだ、何も出やしないじゃないかと、戸をあけようとしたら、戸があかない、がりがりと爪で戸をひっかき、そのままになった。実はもうひとりの友だちがこっそりつけていって、外から戸をおさえていたのだが、その友人は、静かになったのをあやしんで戸をあけてみると、なかの男は心臓麻痺をおこして死んでいた。

数日後、おなじ便所で、その友人はくびをくくって死んでいた。

以来、この便所には行くものがなくなり、あかずの便所となったという。

この話は、小学生にとって、妙に実感のあるはなしで、夜になってひとりで便所に行く時に、思いださずにはいられなかった。

冗談で友人をころした。自分の意図をこえて悪事をなすおそれが、このはなしにはある。おそらく、そういう悪事を、私もまた、これまでの生涯にくりかえししてきたにちがいない。

この状勢全体をしっかりと見きわめて、自分自身の悪事を無視して、世をおしわたってゆく気力のある人には、その行動を設計する合理性がそなわっている。

社会生活の習慣は、善の道をつくる。その習慣が文章になり法律になると、法律を強制するところから悪がうまれる。その法律をたくみに使って、自分の目標を達成するには、法を悪人の眼から見る視野がそなわり、そこから人間解放の別の道がひらけ、悪人性によって支えられる合理性が発達する。善人の善意だけからでは、社会科学も政治学も法学もそだたない。その事情を考えると、悪は学問の母である。悪人の身にそなわる合理性に着目し、そこからまなび、それと競争する智慧の必要がわかる。ひとつ国の国民全体を善人にしたてることに成功する為政者は、政府を批判する芽をあらかじめつむこととなり、競争なしの悪の道をその政府としてはまっすぐにすすむことができる。善と正義の名の下に、どれほどの残酷な政治(とくに戦争)がこれまでおこなわれてきたか。暴政に対してたちあがる革命運動が、みずからの善を信じきって、追随者への善のおしつけによって、しばらくの後には、多くの悪をうみだしてきたことも、史実があきらかに示すところである。

悪はある。自分の内と外とにある悪を見ることから、出なおしたい。」
 

つづき。

 投稿者:こ。  投稿日:2011年 7月 6日(水)23時15分23秒
  こどものころに、こんなはなしを読んだ。

野中の一軒家の軒さきに雨やどりしていた商人が、ふところに大金をもっているところに眼をつけられて、一軒家の主人に殺された。死ぬ時に彼は、水たまりに浮んでいた泡んぶくに頼んだ。

「泡んぶく、泡んぶく、このことをおぼえていてくれ」

何年かたって、その商人の息子が、おなじ軒ばに雨やどりをしていた。宿の主人は、水たまりに浮んでいた泡んぶくにつられて、昔こんなことがあったと話した。彼は、息子に殺された。

水たまりに浮ぶ泡んぶくには、なんとなく、自分の底にある悪事をはなさせる魔力がひそんでいる。そんな感じが、私にもつたわってきた。

そういうさそいに抗して、私は自分の底にある悪事をかくしとおしたい。そう思っていくら努力しても、やはり無駄かもしれないとも、思った。

(つづく。)
 

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